インド仏教とチベット学
チベット仏教文献はインド仏教と深い関連性があります。ここではインド仏教研究の視点から、チベット仏教文献の重要性について説明しましょう。
インドからチベットへ仏教が伝えられたのは、7世紀の出来事です。そして8世紀以降、チベットでは国家事業として、サンスクリット(経典・律典・論典)からチベット語へと仏典が翻訳されました。この訳経事業はインドから招かれた高僧らとともに進められ、短期間に膨大な数に上るチベット語訳文献が蓄積されました。これらチベット語訳文献の特徴は、サンスクリット原典に忠実な逐語訳であり、一語一句が正確に翻訳されている点にあります。
このチベット語訳文献は、インド仏教研究者にとって非常に重要な地位を占めている、といえます。というのは現在、サンスクリット文献の大半は散逸し、または現存していても参照不可能な状況にあるからです。インド仏教研究者が利用できるサンスクリット文献はそう多くはありません。したがってサンスクリットが参照しえないテクストを研究対象とする場合、逐語的な翻訳であるという点で信頼性の高いチベット語訳テクストが一次資料になります。
インド仏教は多数の学派・思想哲学を生み出しました。チベット仏教の諸宗派は、そのなかでも中観派とその教義を最高位に位置づけています。そこで以下、中観系論書に限定して話を進めましょう。
自己の思想的立場をナーガールジュナ作『根本中論頌』にもとづくものと規定し、ナーガールジュナの学的系統を継ぐ人々を「中観派」と呼びます。彼らとって最も重要なテクストが『根本中論頌』です。当該書に対しては、中観派を自称した論師またはそれ以外の論師たちによって多数の註釈書が著されています。
しかし『根本中論頌』及びその註釈書のうち、サンスクリット原典が参照可能なのはごく一部の文献に限られています。近年公表された『根本中論偈』(断片、全447偈中の105偈)、ブッダパーリタ作『仏護註』(第2・7・8・9・10・13・14・20章の各断片)の他、チャンドラキールティ作『プラサンナパダー』(完本、写本多数、当該註釈書から『根本中論偈』の全偈が回収可能)があるのみです。それ以外の註釈書のうち、作者不詳の『無畏註』、バーヴィヴェーカ作『般若灯論』とその複註であるアヴァローキタヴラタ作『般若灯論逐一註』はチベット語訳テクストが一次資料になります。
同様に『中論』註釈書以外の主要な中観系論書は、そのほとんどがチベット語訳でのみ参照可能であり、サンスクリットが得られるのは僅かにバーヴィヴェーカ作『中観心論』、シャーンティデーヴァ作『入菩薩(菩提)行論』、プラジュナーカラマティ作『入菩薩(菩提)行論難語釈』だけです。
以下に挙げる諸著作はチベット語訳でのみ参照可能なテクストの一部です。
- 伝バーヴィヴェーカ作『思択炎』
- チャンドラキールティ作『入中論』・ジャヤーナンダ作『入中論逐一註』
- シュリーグプタ作『入真実論』
- 伝バヴィヤ作『中観宝灯論』
- アティシャ作『菩提道灯論』『入二諦論』
インド仏教後期の中観派論師として著名なジュニャーナガルバ・シャーンタラクシタ・カマラシーラの主著である『二諦分別論』『中観荘厳論』『中観光明論』もまた、すべてチベット語訳テクストが一次資料になります。
それではこの三論書に関連して、チベット仏教文献の重要性について説明しましょう。チベット仏教史を代表する人物のひとりに、チャパ・チューキセンゲ(ཕྱ་པ་ཆོས་ཀྱི་སེང་གེ་, ca. 1109-1169)がいます。チャパに関する記録について、我々が知り得る事柄はそれほど多くありません。ゴク・ロデンシェーラプ(རྔོག་བློ་ལྡན་ཤེས་རབ་, 1059-1109)の弟子であるトルンパ・ロドゥーチュンネー(གྲོ་ལུང་པའ་བློ་གྲོས་འབྱུང་གནས་, 1100頃)が師の一人であったこと、またチャパが18年にわたってサンプ・ネゥトク(གསང་ཕུ་སྣེའུ་ཐོག་)僧院の座主をつとめたことなどを僅かに知り得る限りです。チベット仏教思想史的には、論理学・中観学の二領域において大きな功績を残しています。中観派論師としてのチャパは、ゴク・ロデンシェーラプの自立論証派(རང་རྒྱུད་པ་)系統を継承しています。そしてチャパは、上に述べたインド中観派の三論師の主著に註釈を著しています。それらは、近年、ラサにあるペルツェク蔵文古籍研究所(དཔལ་བརྩེགས་བོད་ཡིག་དཔེ་རྙིང་ཞིབ་འཇུག་ཁང་)により編纂され、四川民族出版社から発行された《བཀའ་གདམས་གསུང་འབུམ་ཕྱོགས་བསྒྲིགས་》(百慈蔵文古籍研究所整理『噶当文集』四川民族出版社、2006年)第6巻に所収されています。
- དབུ་མ་བདེན་པ་གཉིས་ཀྱི་དོན་བསྡུས་པ་(pp.185--259)
- དབུ་མ་བརྒྱན་གྱི་འགྲེལ་པ་རྒྱ་ཆེར་བཤད་པ་(pp.433--518)
- དབུ་མ་སྣང་བའི་བཞུང་གི་དོན་(pp.265--429)
チベット仏教文献はチベット仏教独自の文脈をもっています。したがってチベット仏教文献の記述を、インド仏教の史実を反映したものとして安易に読み込むことはできません。そしてチャパの著作は、単にインド仏教文献を解明するためのツールという枠を超え、チベット仏教を研究する上でも極めて重要な価値をもっているといえます。