研究プロジェクト Research Project
2. フィールドワーク/Fieldwork
ペンボ訪問記2003
研究員・三宅伸一郎
2003年9月、西蔵語文献研究班の用務でチベット滞在中、西蔵大学留学中(当時)の井内さん、本学大学院・社会学専攻(当時)の中村君とともに、ラサ北方のペンボ(འཕན་པོ་)地方を訪れました。ここは、ポトパ(པོ་ཏོ་བ་)やランリタンパ(གླང་རི་ཐང་པ་)、シャラワ(ཤ་ར་བ་)といったカダム派の善知識たちを数多く輩出し、「文化の源泉(རིག་པའི་འབྱུང་གནས་)」と称せられている地域です。
ここが「文化の源泉」と称せられているのは、カダム派の善知識たちを数多く輩出したという他に、チベット民話上の智恵者トリックスター、アク・トンバ(ཨ་ཁུ་སྟོན་པ་)が、ここの人だけは騙せなかったことに由来するとも言われています。
訪問地(寺院)は次のとおり。
- ロツァー・ラカン(ལོ་ཙཱ་ལྷ་ཁང་)
- ギェー・ラカン(རྒྱལ་ལྷ་ཁང་)
- ナーレンダ(ན་ལེན་དྲ་)
- ランタン(གླང་ཐང་)
以下、各訪問寺院の紹介をします。
「ペンユル」というのはカダム派の教えの源泉である。そこには、ネプスルパ(སྣེའུ་ཟུར་པ་ཡེ་ཤེས་འབར་བ་, 1042-1118) 、ポトパ、プチュンパ(ཕུ་ཆུང་པ་གཞོན་ནུ་རྒྱལ་མཚན་, 1031-1106)などの寺が数えきれないほどある。しかし、その中のいくつかは山奥にあり、探すのは困難である。その多くは、跡しか残っていない。(ジャムヤン・ケンツェའཇམ་དབྱངས་མཁྱེན་བརྩེའི་དབང་པོ་ཀུན་དགའ་བསྟན་པའི་རྒྱལ་མཚན་, 1820-1892『ウー・ツァン聖地録』)
ペンボは、ラサの盆地から山を隔てた向こう側にあるのだが、往時、寺院はラサより向こうの方に多くあった。上部ペンボ(འཕན་སྟོད་)は牧畜地のように広く心地よいところである。ランタン、ポト、タギャプ(བྲག་རྒྱབ་)などカダム派の名高い寺院のほとんどは、その盆地にある。カダム派の古いそれらのすべての寺院の境内は、仏塔にほとんど満ちあふれている。インドにある鹿野苑や、ナーレンダの寺院跡などにも、大小の仏塔が数えきれないほどある。それゆえ(これらカダム派の寺院は)昔のやりかたそのままなのである。(ゲンドゥン・チョンペーདགེ་འདུན་ཆོས་འཕལ་, 1903-1951『世界知識行』p.7)
ロツァー・ラカン
ギェー・ラカンから少し下った所の心地よい洞窟に小さな尼寺がある。行くと、パツァプ(པ་ཚབ་ཉི་མ་གྲགས་པ་, 1055-?) であった。かの大翻訳官の寺院であった。小さく粗末なお堂しかなかった。このような有名な大寺院などについても、自分の(国の)歴史を詳しく調べていない者たちが「ウー・ツァン地方にある」という以外、どこにあるのか詳しく知らないものである。しかし、突然そこに至った時、悲喜こもごも入り交じった複雑な感情が沸き起こる。カダム派のそのお堂は、すべて不格好で、柱の木は皆歪んでいて、まっすぐなものなど1つもない。ほとんどがそのようなものである。しかし、参拝するだけで、仏教に従う喜びを思い、喜びに呆然とするすばらしさだけがある。ペンボは「人も正直である」という。土地もたいへん心地よい。(『世界知識行』pp.11-12)
キチュ川の南岸沿いに東に進み、タクツェ大橋を渡り今度は北岸へしばらくキチュ川沿いに進み、西北から流れ込むペンボ・ゲンチュ川との合流地点付近で西北に進むとペンボに至る。その中心地・ガンデンチュンコル(དགའ་ལྡན་ཆུང་འཁོར་)まで約80キロ。ラサからここまでは舗装路。ランクルで1時間ほどの道のり。ガンデンチュンコルから未舗装路に入りさらに西北に進む。「虎頭山水庫」という人工池のほとりを通る。1時間ほど走ると、山の頂に小さな寺院が見える。その名はドゥプギェー(གྲུབ་རྒྱལ་)寺。この寺の建つ山の脇を通り過ぎると、なだらかな山の麓に小さな寺が見える。目指すギェー・ラカンはここかと訊ねてみると、そこは尼寺、名を「ロツァー・ラカン」というとのこと。ふとゲンドゥン・チョンペーの著作の一節が頭を過る。「パツァプの寺か」と訊ねると、老尼僧はそうだと答えた。『入中論』『プラサンナパーダ』の翻訳者で、チベット中観学の祖師といえる翻訳師パツァプ・ニマタクパの建立した寺院である。彼の故郷パツァプは、この寺の東側にあるという。小さな集会堂があるだけの小さな寺だ。所属尼僧は40人とのこと。本堂入り口付近の壁にこの寺院の目録が記してあった。
ギェー・ラカン
ロツァー・ラカンに別れを告げ、さらに西北に進む。しばらくすると目的地であるギェー・ラカンが見える。
シャン・ナナム・ドジェ・ワンチュー(ཞང་སྣ་ནམ་རྡོ་རྗེ་དབང་ཕྱུག་)により1012年に建立された古刹である。シャン・ナナム・ドジェ・ワンチュクは、古代チベット王国の王家とは姻戚関係にあったシャン家に生まれた。後伝期の下部律の復興者ラチェン・ゴンパ・ラプセー(བླ་ཆེན་དགོངས་པ་རབ་གསལ་, 953-1035)の弟子ルメー・シェーラプ・ツルティム(ཀླུ་མེས་ཤེས་རབ་ཚུལ་ཁྲིམས་)より戒を受け、この地に寺院を建立したのだった。彼は後、カダム派の開祖ドムトンバ(འབྲོམ་སྟོན་པ་ཆོས་ཀྱི་འབྱུང་གནས་, 1005-1066)の戒師となる。
本寺建立については、次のような伝承があるという。付近に住むナーガの母がいつも乳房を擦り付け、乳を振りかけていた大きな石があった。これを見たシャン・ナナム・ドジェ・ワンチューが、不思議に思って、何かあるに違いないと、その石を持ち上げてみると、そこには1体の仏像があった。そこで彼はここに小さな堂を築いた。それがマモ・ラカン(མ་མོ་ལྷ་ཁང་)とよばれ、現在も堂は残っているという(未確認)。この小さなお堂がギェー・ラカンのもとになったといわれる。また、寺院建立については、ニェンチェン・タンラによる授記を受けていたともいう。
もと泥棒という特異な経歴を持ち、数々の逸話を残しているカダム派のゲシェー・ベン(དགེ་བཤེས་འབན་གུང་རྒྱལ་ཚུལ་ཁྲིམས་རྒྱལ་བ་, ca. 11th c.)もこの寺の出身であるという。また、シチェー派(ཞི་བྱེད་པ་)のパ・ダムパ・サンギェー(ཕ་དམ་པ་སངས་རྒྱས་, ca. 11th c.)は、ロバに生まれた自分の母を探すため、身をやつしてこの寺に滞在したという。
もとカダム派であったが、現在はゲルク派。60人の僧侶を擁する密教専門の寺院となっている。本来の寺院の主である化身ラマは20代を数えるが、現在インドにいるという。チベット暦の4月14、15日には「ギェー・メトー・チョーパ(རྒྱལ་མེ་ཏོག་མཆོད་པ་)」と称する祭礼でチャム(仮面舞踏)が舞われ、同時に6点の砂マンダラが作成されるとのことである。特筆すべきは、サン・デ・ジク・スム(གསང་བདེ་འཇིགས་གསུམ་、秘密集会、サンヴァラ、ヤマーンタカの3尊)というゲルク派の基本的なものとともに、カダム・ティクレ・チュクドゥー(བཀའ་གདམས་ཐིག་ལེ་བཅུ་དྲུག་)という、現在では同寺とラデン寺にしか伝承されていないマンダラが作成されるということである。
本寺院の最も重要な本尊は、弥勒の石仏である。チベットでは見られない、インド様式のものである。ゲンドゥン・チョーペーは、その後背の銘文を掲げ、これがチベットで作成されたものではないかと論じている[『世界知識行』pp.8-9]。本寺近辺のラマ(ར་མ་)、ロマ・トー(ཀློ་མ་སྟོད་)にもそれぞれ弥勒像があり、本寺の弥勒像と合わせて弥勒3兄弟と称せられ、加持を得るためには、この3像を1日のうちに参拝しなければならないとされている。伝承によれば、シャン・ナナム・ドジェ・ワンチュクは弥勒の化身であるといわれ、弥勒3兄弟を建立し開眼供養を行った際、彼自身の姿が弥勒像に溶け込んだといわれている。
僧侶の説明によれば、ジュンガル(実際は1240年のドルダの率いるモンゴル軍のことと思われる。ペンボには他にジュンガルの攻撃を受けたといわれる寺院がある)がこの寺院を焼き払った時、この弥勒の石像は火を遮るかのようにその手のひらを燃え盛る炎に向けたという。ただ、この本尊の安置されている小堂の管理人(俗人)によれば、「火を遮るかのように」ではなく「洪水の際、水をせき止めるかのように」との説明がなされ、伝承に不一致が見られる。
上・下(རྒྱལ་སྟོད་, རྒྱལ་སྨད་)の2つの本堂が存在する。その周囲にある民家は、往事僧房であった建物だ(往事1949年の姿はH.E.Richardson, High Peaks, Pure Earth: Collected Writings on Tibetan History and Culture, Serindia Publications, London, 1998, plate 51で見ることができる)。現在実際僧侶が活動しているのは、下の方だ。
文化大革命中、この寺は刑務所に使用されていたため、壁画については破壊を免れている。ただし、すでに1240年、モンゴル軍に攻撃され、焼失したため、現在残っている壁画はそれ以降再建されたものだ。筆者の印象ではこれらの壁画は17、8世紀以降−−少なくともダライラマ5世の像があるので彼以降−−のもののようであった。
H.E.Richardson("Tibetan Inscription from rGyal lha khang", Journal of Royal Asiatic Society, 1957)やゲンドゥン・チョーペーの記す石碑は保存されていた。石碑は現在補修のためか、その下半分がコンクリートによってかためられている。
両氏がここを調査した20世紀中頃には、すでに一部分破損していたといわれるこの石碑の碑文を後日写真にて碑文を実際に確認したところ、両氏の記録するところと同一であり、訂正すべき点はない。幸いなことに、両氏が調査で確認した碑文のある部分だけは、さらなる破壊を免れていたことになる。ただしそれは、Richardson氏のいう東面のもののみについてであって、氏がわずかに記録に残している南面の碑文は確認できなかった。
