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今から約800年前、1173(承安3)年、京都の日野の地で親鸞は誕生した。9歳の時に慈円(1155〜1225)のもとで出家し、以後20年にわたり、比叡山で堂僧として修学に励む。 29歳の時、比叡山を下り、聖徳太子ゆかりの六角堂に100日のあいだ参籠する。その中で聖徳太子の夢告をうけて吉水(よしみず)の地をたずね、本願念仏の教えを説いている法然(ほうねん)上人(1133〜1212)に出遇う。これ以降、生涯を通じて法然の門弟として、本願念仏の教えに生きていくことになる。 33歳の時には師法然の『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』の書写と、肖像を画くことをゆるされ、これが後には法然の仕事を引き継いでいこうとする使命感となっていく。 1207(承元元)年、専修念仏弾圧によって、法然上人をはじめ8人が流罪(るざい)に、また住蓮房ら4人が死罪に処せられることになる。親鸞も藤井善信の罪名で、越後の国(現在の新潟県)に流罪となり、法然上人とは再び会うことはできなかった。親鸞35歳の時である。 1211(建暦元)年、罪をゆるされたが、しばらくは越後にとどまり、42歳の時に妻子とともに関東の常陸(ひたち、現在の茨城県)に移る。その後の約20年間、多くの同朋たちに本願念仏の教えを伝えていった。 60歳をすぎた頃、親鸞は京都に帰り、『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)をはじめとする著作を次々と書いていく。それは師法然が明らかにした本願念仏の仏道を、世に掲げようとする願いに支えられたものであった。 京都での生活も決して平穏なものではなく、弾圧を避けながら住む場所も転々としている。また、84歳の時には、本願念仏を否定した息子の善鸞を義絶しなければならないという悲しい出来事もあった。しかしその生涯は、迷いを超えて真実に生きる道を求め続けた一生であった。 みずからを愚禿釈親鸞と名のり、仏道に捧げ尽くした90年の生涯は、1262(弘長2)年11月28日をもって閉じられた。 |
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