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一 弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、[*1]また本願ぼこりとて徃生かなふべからずといふこと。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこゝろえざるなり。よきこゝろのおこるも宿善のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも惡業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卯毛《うもう》・羊毛《やうもう》のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。 またあるとき、唯圓房はわがいふことをば信ずるかと、おほせのさふらひしあひだ、さんさふらうとまふしさふらひしかば、さらばいはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つゝしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば徃生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらうとまふしてさふらひしかば、さてはいかに親巒がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごともこゝろにまかせたることならば、徃生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをし[*2]らざることをおほせのさふらひしなり。そのかみ邪見におちたるひとあて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて徃生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこへさふらひしとき、御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからずとあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり。またく悪は徃生のさはりたるべしとにはあらず。持戒・持律にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死をはなるべきやと。かゝるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられさふらはじものを、またうみ・かわに、あみをひき、つりをして世をわたるものも、野《の》やまにしゝをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなゐをし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなりと。さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべしとこそ、聖人はおほせさふらひしに、當時は後世者ぶりして、よからんものばかり念佛まふすべきやうに、あるひは道場にわりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば道場へいるべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚假をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも宿業のもよほすゆへなり。さればよきこともあしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらすればこそ、他力にてはさふらへ。『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業のみなればすくはれがたしとおもふべき」とさふらうぞかし。本願にほこるこゝろのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も决定しぬべきことにてさふらへ。おほよそ悪業煩惱を断じつくしてのち本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩惱を断じなば、すなはち佛になり、佛のためには五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩惱不浄具足せられてこそさふらうげなれ、それは願ほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにてさふらうべきぞや。かへりてこゝろをさなきことか。[*3] |
【注記】 *1 本文「又」を消除し「また」と訂記 *2 本文「る」をなずり「ら」と訂記、さらに右行間に「ら」と記す *3 以上を上巻とする |
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