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端坊旧蔵 永正本 蓮如本(西本願寺蔵)


端坊旧蔵 永正本
■序
■第一条
■第二条
■第三条
■第四条
■第五条
■第六条
■第七条
■第八条
■第九条
■第十条
■第十一条
■第十二条
■第十三条
■第十四条
■第十五条
■第十六条
■第十七条
■第十八条
■結語
■流罪記録
■奥書

一 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
この条、すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの[*1]聖教は、本願を信じ念仏をまうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ、学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆへに、易行といふ。学問をむねとするは、聖道門なり。難行となづく。「あやまて学問して、名聞利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらん」といふ証文もさふらふ[*2]べきや。当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、[*3]諍論[*4]くはだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はをとりなり」といふほどに、法敵もいできたり、謗法もをこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり。その宗、あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自余の[*5]教法はすぐれたりとも、みづからがためには、器量をよばざれば、つとめがたし。われも、ひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気《け》せずば、たれのひとかありて、あたをなすべきや。かつは、「諍論のところには、もろもろの煩悩をこる。智者遠離すべき」よしの証文さふらふにこそ。故聖人のおほせには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。また、ひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられさふらふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひ[*6]たまふべきなり。あやまて、そしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえさふらひぬべけれ。かくまうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじと、ときをかせたまふことをまうすなり」とこそさふらひしか。いまの世には、学文して、ひとのそしりを[*7]やめ、ひとへに論義問答むねとせんとかまへられさふらふにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて[*8]往生せば、いかがなんどと、あやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきをもむきをも、とききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそ[*9]なんどと、いひをどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて、他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざる[*10]ことをと云々
【校訂】

*1
「聖教」=蓮如本「正教」
*2
「べきや」=底本、別本、蓮如本ともに「べきや」とするが、『真宗聖典』は、『歎異抄私記』により「ぞかし」に改める。
*3
「諍論」=蓮如本「法論」
*4
「くはだてて」=蓮如本「くわだてて」
*5
「教法は」=蓮如本「教法」
*6
「たまふべきなり」=蓮如本「たまふなり」
*7
「やめ」=蓮如本「やめん」
*8
「往生せば」=別本・蓮如本「往生は」
*9
「なんどと」=蓮如本「なんど」
*10
「ことをと云々」=蓮如本「ことを」
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