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一 經釈をよみ學せざるともがら、徃生不定のよしのこと。この条すこぶる不足言の義といひつべし。他力真實のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ、念佛をまふさば佛になる、そのほかなにの學問かは徃生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも學問して本願のむねをしるべきなり。經釈をよみ學すといへども、聖教の本意をこゝろえざる条、もとも不便のことなり。一文不通にして、經釈のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための名號[*1]のおはしますゆへに易行といふ。學問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまて學問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の徃生いかゞあらん[*2]ずらんといふ證文もさふらうべきや。當時専修念佛のひとゝ聖道門のひと、法輪をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、報敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸[*3]門こぞりて、念佛はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものゝ、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自餘の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。われもひとも生死をはなれんことこそ、諸佛の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくい氣《げ》せずば、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは諍論のところにはもろもろの煩惱おこる、智者遠離すべきよしの證文さふらふにこそ。故聖人のおほせには、この法をば[*4]信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、佛ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。また、ひとありてそしるにて、佛説まことなりけりと、しられさふらう。しかれば徃生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。佛のかねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじと、ときおかせたまふことをまふすなり、とこそさふらひしか。いまの世には、學文してひとのそしりをやめ、ひとへに論義問荅むねとせんと、かまへられさふらうや。學問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の廣大のむねをも存知して、いやしからん身にて徃生はいかゞなんど、あやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきを[*5]も、とききかせられさふらはゞこそ、學生のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごころもなく本願に相應して念佛するひとをも、學文してこそなんどいひをどさるること、法の魔障なり、佛の怨敵なり、みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こゝろにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。 |
【注記】 *1 本文「に」の上に「の」と訂記 *2 本文「と」の上に「ず」と訂記 *3 左行間に「門」一字補記 *4 右行間に「信ずる」三字補記 *5 左行間に「も」一字補記 |