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一 念佛まふしさふらへども、踊躍歡喜のこゝろおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば、親巒もこの不審ありつるに、唯圓房[*1]おなじこゝろにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ徃生は一定おもひたまふなり。よろこぶべきこゝろをおさへて、よろこばざるは、煩惱の所為なり。しかるに、佛かねてしろしめして、煩惱具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力[*2]の悲願は、かくのごとし。われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまひりたきこゝろのなくて、いさゝか所勞《しよろう》のこともあれば、死《し》なんずるやらんとこゝろぼそくおぼゆることも、煩惱の所為なり。久遠劫よりいまゝで流轉せる苦惱の舊里はすてがたく、いまだむまれざる安養浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよくよく煩惱の興盛にさふらうにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておはるときに、かの土へはまひるべきなり。いそぎまひりたきこゝろなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、徃生は决定と存じさふらへ。踊躍歡喜のこゝろもあり、いそぎ浄土へもまひりたくさふらはんには、煩惱のなきやらんとあしくさふらひなましと[云ゝ]。 |
【注記】 *1 「同」をかきなずり右に「お」と訂正 *2 右行間に「の」一字補記 |